三陸の旅 南三陸町 311震災語り部
雨が降り始めた朝8:40から、バス3台に分乗して、
ホテルスタッフによる震災ガイドが始まりました。
2号車は、渉外部長の伊藤さんによる語り部。
自宅が流され、1時間かけて仮設住宅から通勤されているそう
ガイド終了後に伊藤さんからブログ掲載許可を得たので、
写真や語られた内容を残します。
語り部の内容は個々のスタッフに任されていて、
スタッフにより語る内容が異なるそうです。
伊藤さんから
「沢山の方々に知ってもらいたい、忘れずにいて欲しい。」
「多くの皆さんに、素晴らしい南三陸へ訪れていただきたい。」
その重い言葉が耳に残ります。
↑宮城に入ってからすぐ購入した本に、南三陸町の被災直後の写真がありました。
●戸倉地区『高台4戸を残して波がさらっていった』
津波防止の堤防と水門を越える高さの津波が来てしまった。 小さな港を中心に約140戸の家屋があったが、津波にのまれてしまい、残ったのは高台に建てられた4戸のみ。
『生死を分けた避難訓練』
海から数メートルの場所に、新校舎に建て替えられたばかりの『南三陸町立戸倉小学校』があったが、全壊して取り壊されている。
3/9の地震(震度5)を受けて、3/10に緊急の避難訓練が実施された。ある教員による指摘で、校舎屋上への避難から、高台避難へ急遽変更になったという。
3/11地震からおよそ40分後、巨大津波が校舎を丸ごとのみこんだが、高台へ避難していたので全員無事だった。(後々別の場所で亡くなった方もいるが)
そして、戸倉地区と隣接する岬の反対の『石巻市立大川小学校』は、海から300m離れた場所にあったが、避難経路を誤ったせいで7割以上の児童が犠牲となった。『津波は川を伝い想定外の被害になった』
2年経ってもまだまだ残るガレキの山。
家屋や森林をなぎ倒しながら、全てを壊していったことを物語っている。 小さな川だが津波が川を伝って逆流し、海から離れた奥の地区までも壊滅させた。
リアス式海岸は湾が狭くなっているため、力が集中し津波が高くなってしまうとのこと。
8日後には仮設橋がかけられたが、橋桁だけがさみしく残った。
●志津川地区 『ゲストを守った高野会館のスタッフ』
地域の高齢者イベントが開催され、高野会館で377名もの人たちが被災した。
外に逃げようとするゲストに、「津波来たら間に合わない」と制止して屋上へ避難させた。
数名が飛び出した直後に津波が押し寄せ、屋上まで波が達したが、屋上へ避難した者は助かった。
『津波避難所に指定されていながら犠牲者が出た志津川病院』
津波を想定し建てられた5階建ての大病院だったが、想定(3階)を越える4階まで津波が到達してしまった。入院患者109名のうち64名の患者と誘導していた病院スタッフ4名が、ベッドごと負ぶられたまま津波に流されていった。
屋上へ避難できた患者も、菅野先生たちが懸命に治療を続けたが、救援ヘリが遅れて数名が亡くなった。 『色々なものが仮設のままの町』
震災直後いち早く駆けつけたのが、自衛隊と全国の電気技師集団だったという。
電気が早く復旧したことに感謝しつつも、「仮設変電所」は未だに仮設のままである。
そして、少し坂を上った町のあちこちに点在する「仮設住宅」は、55箇所でも足りず、隣町の仮設住宅に入居している者も多い。写真は比較的広い仮設住宅。 役場や漁業組合、医療センターなどは高台のベイサイドアリーナ付近に仮設された。
(去年、診療所は赤十字により建てられたが)
震災直後いちはやく海外から駆けつけたイスラエルの医療スタッフにより、仮設の医療センターが設けられた。(建物費用をめぐり話題となったが)医療設備は全てイスラエルの好意で寄贈された。
寄贈をめぐって国から許可が降りなかった際に、イスラエル側からの回答は「我々が忘れただけ」という、なんとも粋な秘話があったのだそう。
写真のテントはボランティアセンター。 地元銀行も早くから仮設営業を再開したそうで、こうしたプレハブの仮設店舗を多く見かけた。
小雨になったので、1箇所だけバスを降りて見学できた。
『天使の声で防災のシンボルになった防災対策庁舎』
津波到達の直前まで、「高台へ避難してください」と、防災無線で発信しつづけ、“天使の声”で話題になった遠藤未希さんが勤めていた庁舎。
屋上へ避難した職員のうち、階段付近に居た数名だけ生き残った。
この話にはもう1つのドラマがあり、結婚式を控えた未希さんを守ろうと勇敢に残った職員がいたことは、一部の者しかしか知らない話だそう。(詳細は書きませんが)未希さんへ多くの手紙や花が手向けられている。
『地盤沈下してさら地になったままの志津川周辺』
沿岸地域は、地盤が80cm沈下したため、道路底上げ工事が行われている。
自衛隊やボランティアにより、倒壊建物の解体やガレキ撤去は進んでいるが、水産業を中心に栄えていた志津川周辺の加工工場や商店が消え、何もないさら地なのが逆に無機質で怖い。
南三陸町全体で、17,000名強の住民のうち、600名以上が亡くなり、未だ223名(今年3月時点)が行方不明だという。
他県や他地域へ避難した者も多く、人口が2,000人減ってしまい、町の再建にも影響を与えているそう。
↓こちらのサイトを見ると、震災前後の町の様子がわかります。
http://ranasite.net/?p=3326
南三陸町に限らず、沿岸の被災地を走ってわかったのは、まだまださら地(荒地)のままの被災地が多いこと、そして自治体や企業は頑張っていて、コンビニチェーンや衣料品量販店は、次々にプレハブながら仮設店舗を建てている。
一方で、線路や港の整備はまだまだ足踏み状態…
海と山が入り組んだリアス式海岸には、自然豊かな魅力のある町が多いが、出会う旅行者はご年配(平均年齢が50~60代)の方が多いのが残念だった。
被災者に遠慮して足が遠のくことも理解できるものの、「語り部ガイド」などを利用して現地を知ることや、文化を守れるように観光することも大切で、もっと多くの人に旅行してもらいたいと感じました。
どうぞ、自身の目と耳で感じ、自然の美しさと海の幸も堪能しに三陸へ来てください!!
1時間でしたが、貴重な経験ができたことを感謝しています。
長くなりましたが、ちょっとまじめな話でした。
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コメント
貴重なリポート、ありがとうございました。
津波が通過した一瞬で、これほど多くの人々の運命が変わってしまったことに、改めて驚愕しました。
自治体と民間は頑張っているけれど、国の援助が滞っている印象を受けました。
やむ無く故郷を後にした人々が戻ってこられるよう、国、自治体、個人が力を合わせて、一日も早い安全な町作りを実現させて欲しいです。
投稿: タヌ子 | 2013-05-21 06:40
☆タヌ子さん
ちょっと重い内容ですが、ガイド後に伊藤さんと数分お話をさせて頂き、
私たちは何をすれば一番いいのかをうかがいました。
被災地には足を運びにくい感情もあるので・・・
でも現地に来て知って欲しいということや、観光にきて一緒に盛り上げて欲しい旨をおっしゃってました。
こうしてサービス業を中心に一歩ずつ進んでいますが、
全体的にはまだまだ。
今後のことを考えると(また津波が破壊するかも)足踏み状態な感じでした。
ただ個人的には、壊滅したのは水産業で栄えてる町がほとんどなので、
やはり漁港の整備は必須だと思いますし、
道路も沿岸だけでなく、もっと横ラインを増やさないと危ないと感じました。
これら自治体だけでは無理なので、国がもっと力を入れて欲しいです!!
投稿: nami | 2013-05-21 19:21